記事: お茶の歴史|悠久の時を経て進化する日本のお茶の歴史
お茶の歴史|悠久の時を経て進化する日本のお茶の歴史
あたりまえのように私たちの生活の中にあるお茶。皆さまどんな風に味わっていますか。もっぱらペットボトルのお茶をオフィスで飲んでいるという方や、昔なじみのお茶屋さんのお茶を急須でいれないと飲んだ気がしないという方もいらっしゃいますね。お茶はどうやって日本人と関わり、今のような存在となったのでしょうか。このコラムでは日本のお茶の歴史をご紹介します。

中国発祥のお茶
お茶のルーツ
お茶のルーツは中国にあります。お茶は“茶の木”(チャノキ/学名:カメリアシネンシス)という植物の葉から作られ、その茶の木の原産地は諸説ありますが、中国の雲南省から現在のミャンマーあたりとされています。前漢代の紀元前59年には、文学者王褒(おうほう)によってお茶が飲まれていたことが記されており、これは世界最古のお茶の記録とされています。もともと薬として茶葉を噛んだり煮出したりして飲まれていたお茶は、やがて貴族などの上流階級にも広く飲まれるようになり、唐代(7世紀から)には一般的な飲み物となっていたと考えられています。

◆日本茶、紅茶、中国茶などお茶の種類についてはこちらで詳しくご紹介しています。
お茶の種類|本格派から入門者まで楽しめるお茶の知識をご紹介
日本のお茶の歴史の始まり
日本への伝来はこれも諸説ありますが、奈良時代から平安時代に往来していた遣唐使の留学僧たちがお茶を中国から持ち帰ったのが日本のお茶の歴史の始まりとされています。日本最古のお茶の記録は、平安初期の史書『日本後期』にあり「弘仁6年(815年)嵯峨天皇に僧がお茶を煎じ献じた」と記述されています。この頃のお茶は餅茶と呼ばれる固形の茶葉が用いられ、主に宮廷や寺院で飲まれる貴重品でした。
仏教との結びつき
仏教とお茶
仏教とお茶の結びつきは深くお茶の歴史の中でも大きな役割を果たしています。禅宗の修行では、お茶は修行僧の覚醒を助け精神を集中させる薬として用いられ、寺院での日常生活に欠かせないものでした。現代でも仏事の際にお茶は欠かせない飲み物であり、返礼品としても広く使われています。こんなところにも仏教とお茶の長いつながりが感じられます。
栄西の功績

鎌倉時代の初めに臨済宗の宗祖である栄西は中国から抹茶の作法を持ち帰り、お茶の専門書である『喫茶養生記』を著しました。お茶の効能や製造法、飲み方などが書かれており、この著書がお茶文化の普及に広く貢献しました。なお当時のお茶の飲み方は、茶葉を蒸したものを細かく砕き茶せんで泡立てるという、今の抹茶に近い形だったと考えられています。
また栄西は抹茶とともに茶の木の種を持ち帰り、その種子は宇治で栽培され宇治茶の誕生につながったとも言われています。宇治の気候と土壌が茶の木の生育に適していたことから、高品質なお茶が生産できました。

◆お茶のいれ方についてはこちらでもご紹介しています。
日本茶のいれ方をわかりやすく解説!もっとおいしくなる幸福お茶時間。
お茶の儀式から茶道へ
貴族社会に根付いたお茶の儀式
鎌倉時代はお茶の儀式が貴族社会に深く根付いてきた時期であり、茶会を開くことが流行しました。茶会は主に文人や貴族の社交の場で、お茶をふるまいながら詩歌の朗読や書画の鑑賞が行われることが多かったようです。また鎌倉時代末期には「闘茶(とうちゃ)」と呼ばれるお茶の産地を当てる遊びが庶民の間でも流行し、その過熱ぶりは幕府が禁止するほどだったそうです。今でいうとコーヒーのカッピングのようなものでしょうか。遊びとして大人気になったというのは面白いですね。
茶道のはじまり
室町時代に入ると茶の湯の形式ができはじめ武家社会にも広まってきました。茶会は政治的な会合や外交の場として大きな役割を果たすようになり、茶室や茶道具の美的価値も高まってきました。またこの頃、宇治茶が足利義満によって特別に庇護を受けるようになり、江戸時代には徳川幕府へ毎年献上されるほどの確固とした地位を築きました。わらべ歌の「ずいずいずっころばし」は、徳川家へ献上する宇治茶の茶壺を江戸に運ぶお茶壺道中の様子を歌っていると言われています。市井の人々の生活とお茶が深く関わっていたことが伺えますね。

「侘び茶」の基礎はこの時代に築かれ、村田珠光(むらたじゅこう)によって禅の思想を受けた簡素さと自然の美を尊重する茶の湯の精神が形づくられていきます。その後、安土桃山時代に千利休によって大成された茶道は日本文化の象徴と言われる存在となり、現在まで受け継がれています。千利休は「和敬清寂」の理念を掲げ、茶道を通じて日本の美意識と精神性を表現しました。
煎茶の誕生
18世紀に入ると煎茶の製法が確立します。永谷宗円(ながたにそうえん)が茶葉を蒸して揉み乾燥させるという新しいお茶の製法を開発し、茶葉本来の風味と色を保ちつつ渋みを抑えた爽やかな味わいのお茶が生まれました。このお茶は人々に驚きを持って受け入れられました。
そして煎茶の普及はお茶の楽しみ方にも変化をもたらし、「煎茶道」と呼ばれる新たなお茶の作法が形づくられました。煎茶道とは、より自由な精神や簡素さを重んじ、お茶を対話や書画とともに楽しむというものです。これは当時、権力と強いつながりを持ち華美になっていた茶の湯の在り方に疑問を感じていた文人たちの間で特に好まれ、やがて庶民の間にも広まっていきます。
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お茶の輸出と産業革命
輸出品の花形としてのお茶

江戸時代からお茶は重要な輸出品として位置づけられていたこともあり、日本でのお茶の生産は長らく輸出品として成長してきました。明治初期には日本の輸出総額の約20%をお茶が占めるほど日本経済の重要な外貨獲得の源であり、その主な輸出先はアメリカでした。当時日本のお茶はたいへんもてはやされ、緑茶の持つ独特の風味に加え健康的な飲み物としても高い評価を得ていました。現在のインバウンドの方々の抹茶への熱烈な人気ぶりにも通じるものがあるのかもしれません。
第二次世界大戦後、お茶の輸出量はいったん激減しますが、その原因の一つは他の国々で生産される紅茶の台頭でした。日本のお茶は価格競争に勝てず輸出量は減りましたが、同じ頃、日本の一般家庭への普及が急速に進んだおかげで国内需要が増え、お茶の生産が国内向けへシフトするきっかけとなりました。
お茶と産業革命

現在のように一般家庭で緑茶が日常的に飲めるようになるのは、18世紀後半におきた産業革命によってお茶の生産の機械化が進む大正から昭和にかけてまで待たなければなりません。機械化が進みお茶の生産性が飛躍的に上がったおかげで、庶民も手ごろな価格でお茶が飲めるようになりました。家庭に急須が普及したのもこの頃です。日本人と長い結びつきを持つお茶ですが、今ほど身近な存在になったのはここ100年ほどと、お茶の歴史の中では意外と最近のことなのです。
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日本のお茶の歴史年表

日本のお茶の歴史は、お茶が中国から薬として持ち帰られて以来、時代の流れとともに盛衰を繰り返しながら発展してきました。高貴な人々だけが手にできる嗜好品として、また禅宗の教えとともに精神修養の手段として、さらに時代を経て侘び茶から茶道へと、作法だけに留まらない精神性や美意識をも含んだ総合芸術へと発展を続けています。その後、時代の流れとともに西洋文化の影響を受けながらもお茶は独自の価値を保ち続け、常に日本人の心の中に深く根付いていると言えるのではないでしょうか。
お茶の持つ抗酸化作用やストレス軽減作用といった効果はもちろん、ティーバックやペットボトルなどの開発に伴う飲み方の豊富さ、また何より生産者の方々の尽力によるお茶のおいしさは、日々の生活の中で私たちの気持ちを整え和ませてくれています。
皆さまもどうぞ一杯のお茶をゆっくりお楽しみください。
◆緑茶と紅茶は同じ茶の木から作られています。では何が違うのかご存じでしょうか。緑茶と紅茶の違いについてこちらでご紹介しています。
